2011年4月8日金曜日

本人が替え歌を作るとき

よほどの天才で無い限り、歌詞はすぐには生まれない。

それを塗り替えるのだから、覚悟は相当なものがあるはずだ。


シンガーソングライター斉藤和義が、自らのシングル「ずっと好きだった」に新たな歌詞を当て、原発批判曲へと生まれ変わらせた。

その名も「ずっとウソだった」。

公開の仕方がYouTube自画撮りと思われること、そして斉藤が所属するビクターエンタテインメントが「当社として作品で出したものではなく、意図しない形でアップされた」としてこの投稿に削除依頼を出し、現在元動画は削除されているという経緯も重なって、彼の行為を称揚しつつ元動画のコピーを拡散しようとする者が現れている。


一方で、斉藤の行為を批判的に捉える者もある。

特に私の目を引いたのは、原曲とは似ても似つかない内容と化してしまったことに対する失望の声だ。

「ずっと好きだった」はメロディやハーモニー、リズムなどは失礼ながらありきたりな曲であり、インストとして成立させることは困難だ。

音楽性の大半は歌詞によって支えられており、少し昔を懐かしむ内容の歌詞に懐かしのロックンロール調の音楽が重なることで、本来の姿が完成する。

屋台骨とも言えるこの歌詞が突如として原発批判になってしまったのだから、「幻滅」という声が出てしまうのも少しは頷ける。

しかし私には、斉藤はそれを承知の上でこの行為に及んだとしか思えない。


詞を書き、曲を書き、それらを組み立てる、そんな作業を一度でもしたことがある人間なら、その苦労がどれほどのものであるかは知っているはずだ。

並大抵のことでは完成にたどり着くことすらできない。

感覚に任せてにせよ、理論に立ってにせよ、詞と曲を綺麗に組み上げるまでには膨大な労力が必要になる。

よほどの天才で無い限り、ひとつの作品を軽々しく作るというのは困難だと私は確信している。

だから程度の差こそあれ、どんな音楽家も自分の作品にはそれなりのプライドを持っているはずだ。


そう考えると、以前の歌詞を塗りつぶしてまったく違う新たな歌詞を付けるということは、このプライドをかなぐり捨てるのと同等の覚悟が必要だったはずだ、という推測につながってくる。

一度はBillboard JAPANのAdult Contemporary Airplay部門で第一位を取ったほどの歌を引っ掴み、その表情を一変させるような別の歌詞を吹き込む。

制作時の苦悩、完成後の悦楽、ヒット時の感動、そういったものすべてを塗りつぶして。

だから私は、こんなことをやってのけてしまった男に対して多少の畏怖さえ感じている。

他人が替え歌を作るのと、制作の苦労を肌身で覚えている本人が替え歌を作るのでは根本的に違うと思うから。


それとも、単に最近新しいメロディが思い浮かばなかったので直近の歌を使ったというだけで、実は今激しく後悔していたりするのだろうか。

あるいはそこまで酷くは無いにせよ、怒りの気持ちに任せて替え歌を作ったはいいものの、やはり冷静になってみると後悔している、なんてこともあるかも知れない。

それならそれで、とても人間的だとも思うが。

それほど注目していたアーティストではなかったが、今後少し斉藤和義を見てみたい。

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