2010年7月18日日曜日

王道を歩むは王か馬子か

先日初めて知ったのだが、1年半ほど前にとあるコード進行に対して「王道進行」なる名前が付けられ、またそれに伴っていくつかの議論があったようだ。

今回の記事は、多少音楽理論に関する専門的な内容が入ってしまうかもしれない。


J2氏の言う、この30年間J-POPのコード進行に進歩が見られないという主張には、特に検証をせずとも私も同意したくなる。

だがもう少し考えてみると、そもそもラモーがコード進行の基礎となるコードの機能をトニック・ドミナント・サブドミナントの3つにまとめたのは30年どころか300年も前なのだ。

その間サブドミナント・マイナーの登場や、サブドミナントとともにメロディを始める、まさに王道進行が話題としている手法なども開発されてきたが、その進歩は300年でこの程度か、と言って差し支えないほど遅い。

実際にはポリトニックや十二音技法、微分音などさまざまな発明もなされているが、これらの技術がポピュラー音楽に導入されても定着はしなかった。

率直に言って、聴いていて美しくない、あるいは楽しくないからだと思う。

多くの人に受け入れられて「有名」になることこそがポピュラー音楽には必要なのだから、聴いていて美しくない、あるいは楽しくない技法がいくら発明されたと言っても、ポピュラー音楽にとっては無関係な進歩だ。

こう考えると、現在でもコードの機能はサブドミナント・マイナーを含めてもたった4つ、その組み合わせから生まれるコード進行の種類はトニック(T)、ドミナント(D)、サブドミナント(S)を駆使し、かつ現在ではよく見られるサブドミナント始まりなどを網羅しても

  1. T→D→T

  2. T→S→T

  3. T→S→D→T

  4. T→D→S→T

  5. D→T

  6. S→T

  7. S→D→T

  8. S→D

  9. D→S→T

  10. D→S

と、たった10種類しかないのである。

サブドミナント・マイナー(Sm)をサブドミナントとは区別し、非常に奇異なサウンドになる「Sm→S」という進行も加えて、それでようやく30種類に届くかどうか。


王道進行はこのうちの「S→D→T」に該当する。

その特徴は下記のサイトなどで既に指摘されているが、サブドミナントに始まり、トニック代理コード(=I以外)にたどり着くことだ。

ただでさえ10種類しかない中で、これほど広汎な適用範囲を持ち出してくれば、多くのコード進行が王道進行に含まれてくるのは無理もない。


また、王道進行はむしろ王道進行よりもはるかに王道的とも言える昔ながらの「トニック始まり」を避けて珍奇さを追求した結果、と見ることもできる。

王道進行が陳腐だと言ってしまったら、黄金進行も陳腐だという結論になってしまうのではないだろうか。


さらに言うなら、いやむしろこちらの方がより明快に私の主張を構成しているかも知れないが、

そもそも、コード進行が同じだから何だと言うのだろうか。

コードが曲を決定しているのではない。

曲の独創性の大半は歌詞とメロディに支えられている。

極端な話だが、コード進行を含め伴奏が全部同じであっても、メロディが違えばそこには独創性が現れる。

ジャズのアドリブ演奏はその真骨頂だろう。

どんなにコード進行が王道であろうと、それだけで複数の曲を同一視していいものなのだろうか。


コードなんて、アイドルの衣装に過ぎないのではないか。

衣装が変われば雰囲気は変わるし、衣装が雰囲気の多くを決定することも事実だ。

馬子にも衣装、とも言う。

だが、やはり核となるのはそのアイドルそのものが持つ雰囲気である。

馬子はそこで淘汰されていくのだ。

異なるアイドルが同じ衣装を着ているからといって、それらを一緒くたにするのは暴論だろうと思うように、それと同種の危険性を王道進行論からは感じるのだ。

コード進行は衣装に比べて類似性が見抜きにくいのは事実だ。

だからその類似性を指摘すること自体には意味があるかもしれない。

その場合でも、類似性を指摘を超えて陳腐化の批判にまで踏み込んでしまうのは避けるべきではないだろうか。

衣装に流行り廃りがあるように、王道進行を流行りと捉えるなら、いずれそれも廃れていくだろうと楽観視することもできるのだから。

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